2015/05/01

I'm interested in …


・Charles Simonds  1945- / New York


 Venice


 MCA


 Wall Dwelling

2015/04/25

リプチンスキーの「オーケストラ」を観た。階段を登り続けるシーンの曲にラヴェルのボレロを選んだ、もしくはボレロに階段の映像を選んだ彼を、すごく好きだと思った。


( Zbigniew Zbig Rybczynski, The Orchestra (fragment), Bolero (stairway to ... )


幼い頃、「何故階段を登ると高いところへ行けるのだろう」と疑問に思ったことがある。それはすごく単純な行為で、気に留めなければ不思議に感じるまでもないが、だからこそ解らなくて気持ちが悪かった。右足を1段目に載せた瞬間、自分は何段目に居ると言えるのか。そしてさらにその次の瞬間、左足はすでに2段目に掛かっているのである。

考えてみれば簡単なことだった。右足を少し高いレベルに掛け、追うように左足をそのレベルに載せれば、わたしは1段登ることができる。階段を登る行為においては、単純に、この流れの中で同じ段に両足を揃えることが省かれているだけである。行為が連続することで自分の身体の存在がすごく曖昧になっているように感じられて仕方がなかった。

階段がわたしにとって、ある種の特別な時間をもたらすものであること、永遠性のようなメタファーをもっているように感じる所以は、ここにもあるような気がしている。



I'm interested in …


・Zbigniew Rybczyński  1949- / Poland


 The ORCHESTRA


 TANGO


・Dani Karavan  1930- / Tel Aviv


 Passages - Homage to Walter Benjamin


・Susan Clusener  ? / ?


 Spiral Pearcase


 Stair Pear

2015/04/23

我々が当たり前のように過ごしているこの世界は、当たり前のように我々にとって1分の1であり、我々は自分の目に見えているものが今そこに在るものであると信じている。

原寸で存在すること、あるいはさせることを前提とした、言わば “想定された原寸に対する縮尺” の表現がある一方で、我々にとって縮尺の表現でありながら、それが紛れもなく原寸である世界も存在し得るのではないかと考える。縮尺がもつ役割は、単純に大きい物体の代用になることだけだろうか。そこには、何かを手に収まるサイズにすることの意味や、歴史的な背景があるのではないだろうか。

1分の1としての縮尺をもつ表現を通して日常を捉え直し、新たな可能性を発見していきたい。